ふるさと談話�農業今昔�渕野辺支店大野台の開墾 (北海道集落) ケルト人の伝統行事にルーツを持つといわれている「ハロウィーン」。 欧米を経由し日本でも年々浸透しつつあるなか、JA青壮年部大野支部ではウスに部員4人が集まり、ジャック・オ・ランタン作りに挑戦しました。 発起人は鈴木篤史さん。ランタン作りを始めたきっかけを聞くと「始めは、軽い気持ちで一つ作成して家の玄関の前に飾っていました。それを見た近所の子どもたちが『トリック・オア・トリート!!(Trick or Treat!!掛け声と共に、可愛い仮装と笑顔で家に来てくれた事が衝撃的で、こんなに喜んでくれる人がいるなら来年もやってみようと思いました」と笑顔で話します。 カボチャを栽培した小林重治さんは「ハロウィーンカボチャの栽培は、成長途中でダンゴムシやネズミにかじられるなど苦労もありますが、来年はもっと良いカボチャが出来るよう工夫していきたいですね」と話し、栽培の意気込みを教えてくれました。 支部長の岡本博章さんは「今年はコロナ禍の中、残念ながらさまざまなイベントが中止になりました。来年は皆が笑顔になれるような楽しいハロウィーンを迎えられることを願いたいですね」と来年に向けて意欲を高めています。 令和2年10月15日、大野)』の台公民館の会議室を借用し、コロナ感染防止のガイドラインを遵守して、大野台の開墾当時の状況を知る5人の方(細谷達司さん御夫妻、穴田勇さん、川邉法博さん、石川テルさん)と相模原郷土懇話会のメンバー4人で座談会を行いました。 大野台への最初の入植者は、昭和15年10月、北海道から入植(土地を購入)された前田徳次郎氏でした。 当時の地名は淵野辺で、昭和48年の住居表示変更で大野台の呼称となったそうです。 大野台には川が無く、水源は井戸からの■み上げ水である為、井戸を所有する町田市木曽山谷の資産家笠原家の納屋に住み込み、大野台の所有地に自前の井戸を掘って飲み水を確保するのが、前田徳次郎氏の開拓の第一歩だったそうです。(木曽出身の石川テルさん)その後、情報網(富山の薬売り等)で大野台開墾の話が広まり穴田さんのお祖父様(北海道・パラオ諸島・埼玉経由)、川邉さんのお祖父様(北海道)、戦中は、京浜地区からの疎開者など33世帯の方が、大野台に入植されて、戦中(昭和16年)・戦後(昭和22年)にかけて大野台の集落が形成されたそうです。 当時は、戦争による物不足のため国策により配給制が実施されており、細谷商店を営む細谷達司さんは、大野台の集落に、毎日物資を届けた記憶があるそうです。 大野台の開拓地には大規模農家が多く(耕作面積二千坪〜五千坪、更には八千坪)、麦、陸稲、甘■、スイカ、ナス、キュウリ、トマトなどが栽培され、食料の供給に大きく貢献していたそうです。(細谷達司さん) 大野台の皆さまは、文化面でも盆踊りを先駆的に行うなど活発な活動を行い、精神面でも助け合い農業を営んでこられました。 それらの記録は、大野台御嶽神社創紀50年記念誌(平成8年発行)、大野台第相模原郷土懇話会は、今年度から会員共同研究として「戦中戦後のさがみ野開拓調査」を開始しました。現在は農業から離れている方も含めて、農業に関わる皆さまのご協力をこの誌面をお借りしてお願い申し上げます。一自治会創立50周年記念誌(平成16年発行)にまとめられています。 相模原市は、昭和12年9月の陸軍士官学校開設に始まり、相模陸軍造兵廠、陸軍練兵場、陸軍兵器学校、陸軍通信学校、陸軍病院、陸軍機甲整備学校、浅野重工業淵野辺工場(昭和19年)等の施設を有する軍事都市として整備され、その過程で多くの山林や農地が軍用地に転換されました。 敗戦後は、軍用地の多くが米国の軍事施設に転用され、その後、住人の基地反対運動に拠って相模原市に返還され、公共施設の用地などに生まれかわっています。 相模原の農業は、移民政策(海外領土への移民含む)、第二次大戦後の農地改革、日本本土への引き上げ(満州他)などと密接に関連して変化してきました。相模原郷土懇話会 梅田 和冶完成したジャック・オ・ランタンと青壮年部の皆さんPo ta toPo ta to1010My Home Town10月末、天野伸二さんのハ青壮年部がランタン作り
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